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城山の時鍾(とっがね)と廃仏毀釈[後編]


城山の鐘楼に吊るされている鐘−「南方郷戸長事務扱所」の文字が彫られています


 ○一乗院の梵鐘は南方郷役所(鹿籠の城山)へ

一乗院の梵鐘は南方郷役所へ運ばれて時鍾となったわけですが、当時の南方郷役所のあった場所が現在「城山の梵鐘」のある鹿籠の城山でありました。

 一乗院の梵鐘のその後の変遷についても坊津町郷土誌に記されています。

   一乗院の梵鐘は、南方郷の役所のある鹿籠の城山に移して時報鍾とした。

   すべて梵鐘は鹿児島に集めて鋳つぶして大砲や弾丸にすることになっていたが、
  時報鍾は除くことになっていたので、このような処置がなされたものであろう。

   その後坊泊では一乗院の鐘を鹿籠に持って行ったというので、再三返還の交渉をしたが、
  らちがあかなかった。

   この鐘は、人夫八十人で坊から鹿籠の城山に運んだが、明治十年西南の役の際、
  薩軍の砲弾とするため破壊して私学校に送った。

   鹿籠では明治十二年のはじめこれを復元することとなり、
  大阪に発注して八十円の製造費をかけて原型と同様のものを造った。

   (伊集院彦七妄撰より)

 
 ○西南戦争で破壊された一乗院の梵鐘と時鐘の復元

 一方、梵鐘が運ばれた先の鹿籠の枕崎市誌には、復元の際のいきさつをもう少し詳しく書いています。

   (一乗院の梵鐘は)明治十年、西南戦争の際薩軍に運ばれ兵器に変わったが、明治十
  二年、大阪に発注して原型どおりに鋳造した。

   費用八十円、他に運賃七円五十銭を要した。村内の各戸から二銭五厘ずつを拠出したと
  いう。

   明治十二年五月十一日から撞き始め、昭和三年枕崎にサイレンができるまで、村民に時を
  報せた。



 まだ詳しい資料もあります。平成二年発行の枕崎市誌では省かれていますが、昭和四四年発行の枕崎市史では伊集院彦七氏の要録を次のように紹介しています。

   一 大鐘一個
     之ハ坊久志秋目鹿籠合郷ニテ南方郷ト改称相成シ時分坊ノ廃寺一乗院ヨリ人夫凡ソ
    八十人ヲ以テ鹿籠城山ニ据付シニ明治十年丁丑ノ役之ヲ破毀シテ私学校ニ送レリ

   二 撞鐘
     明治十二年於大阪製同年五月十一日ヨリ撞キ始ム、鹿籠村・別府村一戸二銭五厘ヅツ
    鋳造資金八十円外ニ運賃七円五十銭
 



 薩摩藩ではこのあと明治九年になって、鹿児島県参事名で、信教の自由を認める布告を出しています。

 坊泊の人達が梵鐘の返還交渉をしたのがいつの頃かはっきりしませんが、明治九年までは、時鍾として使わなければ鋳つぶされてしまっただろうし、実際に明治十年の西南戦争で一乗院の梵鐘は西郷軍によって鋳つぶされてしまうのです。

 ○復元された鐘は梵鐘(ぼんしょう)ではなく、時鐘(とっがね)

 その後明治十二年に鐘が復元されますが、一乗院の梵鐘を復元するというより、鐘がなければ不便なので時鐘として製作したように思われます。

 その証拠に鋳造された鐘には写真にあるように「南方郷戸長事務扱所」の文字を大きく彫ってあるのです。
 これではもはや梵鐘というより時鐘(とっがね)と言ったほうが良いようです。

 費用についても鹿籠村・別府村各戸から拠出したといいますし、一乗院の梵鐘が鋳つぶされた時点で「坊泊に返せ」とか「鹿籠のものだ」とかの議論は意味をなさないように思われます。

 城山の鐘楼は昭和五二年に桜山校区の人達によって建て直されたものですが、建物の老朽化が進み危険で鐘がつけない状況になっているということで、二年ほど前から大晦日の除夜の鐘も鳴らせないとのことです。

 明治から時を知らせてきた時鐘(とっがね)を鳴らせないのは、なんとも寂しい限りです。

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