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城山の時鍾(とっがね)と廃仏毀釈[前編]


城山にある鐘楼(しょうろう)と時鐘(とっがね)−枕崎市城山センター敷地内から上れます


枕崎市の桜山中学校奥の小高い丘は「桜之城跡」といい、鹿籠(枕崎の旧名)の領主であった喜入氏の居城があった所です。

桜之城跡は地元では「城山」と呼ばれていますが、丘の上に鐘楼があり、鐘が吊るされています。明治から大正にかけては時鍾として鳴らされ、大晦日には地域の人が集まって除夜の鐘を鳴らすなど、古くから地域に愛されてきた鐘です。

 枕崎市誌では「城山の梵鐘(ぼんしょう)」として紹介されていますが、この鐘の由来については、明治初期に吹き荒れた廃仏毀釈で廃寺となった坊津の一乗院と深い関係があるのです。

現在では知る人も少なくなっているので、大晦日を前にして梵鐘の音色を思い浮かべつつ紹介しておきたいと思います。

 
 ○廃仏毀釈で廃寺になった坊津の一乗院

廃仏毀釈によって、日本全国の寺院に古来から伝わる貴重な文化財や資料が失われたことは良く知られていますが、特に薩摩藩においては徹底した仏教弾圧が行われたといいます。

明治政府は、明治元年に神仏分離令を発令します。仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する廃仏毀釈については維新政府も実行を躊躇したとも言われますが、薩摩藩においては明治二年に廃仏を断行し、徹底した仏教弾圧を行いました。

西海最古の名刹である坊津の一乗院やその他島津氏に由緒ある寺院は残されるであろうと思われていましたが、藩内では例外なく徹底した寺院の破壊が行われ、明治九年に信教自由の布告が出されるまで藩内には一つの寺院もなく一人の僧侶もその姿を見ることはなかったといいます。


 ○一乗院の徹底的に破壊された状況

一乗院の廃寺の実施の状況は、坊津町郷土誌に詳しく記されています。

一乗院の廃寺が決定された明治二年末は、すでに地頭政治がしかれ、坊泊郷・久志秋目郷は喜入氏私領鹿籠と合わせて南方郷となり、樺山覚之進が地頭であった。(略)

また、明治新政府は兵力を持たなかったので、薩摩藩は各郷に常備隊を編成した。この常備隊は軍政であるとともに民政をも行った。(略)

南方郷においては、軍務所長として中村半次郎(のちの桐野利秋)が赴任し、南方郷二小隊を編成した。(略)

この時期、一乗院は廃寺となったので、南方郷軍務所の人々が乗り込んできて、藩よりの指示に基づき指揮にあたり、坊泊の廃寺取調掛とともに次のように処置した。

1 寺院の建物は解体した。

2 僧侶はそれぞれ還俗して故郷へ退散した。

3 青銅製の誕生仏、木製の諸仏像、位牌、仏具などは院内の二つの井戸に投入し、井戸はそのため一杯に なったという。石造の仁王像一対は壊して門前にうち捨てた。そのため顔面や腕など損傷している。

4 梵鐘は南方郷役所へ運んで時鍾とした。

5 絵画類(仏画を含む)の若干は坊浜,泊浜の豪商たちから常備隊費用の借入をしてその担保の名目をも って分け与えた。

6 一乗院の寺領は、すべて門前の住民にそれぞれ耕作地として分け与えた。

7 島津家関係の位牌、御文書類、御寄進の品々その他金銀宝石の仏具・器具などは、これを俵に詰め馬の 背に負わせて、曖(あつかい)是枝正右衛門が鹿児島に納入に行った。

8 陶器そのほか器具類は廃寺の実施にあたった人々に分け与えられた。

 
 鹿籠の城山に運ばれた一乗院の梵鐘でしたが、この後さらに数奇な運命をたどります。詳しくは後編で。


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