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枕崎と西郷隆盛の縁(ゆかり)[後編]



「三国名勝図会」より 枕崎港(枕崎海曲の一部)


 
 ○枕崎の鰹漁業のビッグバン 「唐物崩れ」

享保8年(1722年)、それまで密貿易で栄えていた坊津港に、幕府による大々的な一斉手入れが行われ、坊津港から多数の船が枕崎港に逃げ込みました。

古来、坊津は薩摩半島の西南端に位置する天然の良港であり、島津氏の対明貿易の拠点として隆盛を極めてきました。

江戸時代になり、幕府が対外貿易を長崎だけに制限してからも、幕府の眼をかいくぐり薩摩藩の密貿易港として栄えていましたが、当然に幕府の知るところとなったのです。

享保8年、坊津港に突如として幕府による一斉手入れが強行され、徹底した弾圧に遭いました。関係した男たちは行方を明かさず逃げのび、家族と生き別れ、一家離散の憂き目をみる家が続出したとのことです。

この一大事件のことは「唐物崩れ」と呼ばれ、後世に語り継がれています。

以後坊津は、人影もまばらな一小漁港となってしまうのです。

一方、当時の枕崎といえば、湾口は大きく南に開け、天然の漁港とは言い難く、また黒潮は洋上遥かかなたを流れ、鰹漁には縁が薄かったと言います。

ただし、この村には薩摩藩家老、喜入氏の館がありました。
 当時の領主喜入久亮は鰹節に強い関心を抱いた人で、枕崎港に逃れた密貿易船は、久亮によって手厚く保護され内海航海の船に利用するとともに、大船の所有者には鰹漁、鰹節製造の特権を与えられます。

喜入氏は、大船を海運業だけでなく鰹船としても利用させました。このため、近海の鰹に恵まれていなかった枕崎の鰹漁業は、飛躍的に発展していくのです。

漁場も三島方面まで延ばすことができるようになり、幕末の頃には、三島に加えて、口之島、臥蛇島近海まで漁場としていたようです。

 

 ○西郷迎船の正体は…

西郷の迎船の話からかなり飛びましたが、西郷を大島まで迎えに行った船の正解は「商船兼鰹船」だったのではないかと思われます。

大船での鰹漁の操業日数は四、五日だったと言われますが、商船としては南西諸島から阪神方面まで貿易に当たっていたようです。

 

 ○西郷が着いた枕崎港の様子

西郷が着いた当時の枕崎港はどのような様子だったのか。実は、三国名勝図会に当時の枕崎港が描かれています。

三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)は、1843年に薩摩藩によって刊行された藩内の名所・風景などを記した文書ですが、枕崎の説明には次のようにあります。

枕崎  領主館此地にあり、鹿篭村の海曲にて、回り一里餘なり。南溟沓然として、唯蒼畑を遥望す。(一部略)

当時は、夷鼻を中心とした港近辺を「枕崎」と呼んでいたようです。
 「枕崎」の地名の由来については、またの機会に紹介したいと思っています。

1722年の「唐物崩れ」で、坊津港から多数の大船が枕崎港にやってきました。枕崎港は天然の良港とは言い難く、大船を風波から避けるために防波堤の建設が必要とされていました。

こうして、安永四年(1775年)には、「ガンギ(雁木)」と呼ばれる波止場を築造するに至ったのです。

工事には、枕崎の石工、神園孫兵衛が当たり、恵比須の鼻から北西へ、長さ六十間(約120メートル)、幅十間(約20メートル)の「ガンギ(雁木)」を築きました。

このガンギは、昭和7年(1932)に上部がコンクリートで補強され、昭和45年(1970)に完全にコンクリートで覆われてしまいましたが、現在でも港内の東南部にその一部が突出して残っています。

西郷が枕崎に渡ってきたときの枕崎港には、三国名勝図会に描かれているような立派な防波堤があったのです。


(注)「ガンギ」全体をコンクリートで覆ってしまった時期について

 枕崎市誌(平成元年12月発行)には、「このガンギは、現在でも港内の東南部に、その一部が突出して残っている。石造りのものを、昭和7年(1932)に、コンクリートで包み補強したものである。」との記載がありますが
 

 「枕崎市漁業協同組合創立50年史」(平成1212月発行)編集の元になった記録写真に、「写真中央の岸壁は、1775年以来石積の突堤であったものを、コンクリートで包み込むようにしてこの年(昭和45年)に完成した」との記載があり、証拠写真も残っています。

2009年9月  shusen

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