西郷隆盛が島流しをされて、大島から帰るときに枕崎に寄港したとの話があります。
以前にも聞いたことがありましたが、最近またその話を聞いたので調べ直してみました。
単に枕崎に来たぐらいのことだろうと思っていたら、思わぬ逸話がありました。
○大島に迎えに行ったのは枕崎の船
昭和12年(1937年)に刊行された「南洲翁逸話」(鹿児島県教育会編)の中に、次のような話があります。
文久二年(1862年)正月、赦免となった西郷が大島から帰るときの迎船は枕崎の船であり、迎えの船員は、船頭、久保二右衛門ほか中釜二次郎・上釜吉太郎・栄村二之助ら七人であった。
途中何回もしけに遭い、ために枕崎に寄港することとなった。枕崎で数日を過したが、西郷は滞在中、桜山の城山などにも足を運んだ。投宿したのは当時の弁指(べんざし)、立志清右衛門宅であった。
二右衛門の子、次郎作の名は西郷が付けてやったものであり、二右衛門には記念品として、陣太鼓・小旗・砂糖の入ったつぼなどを与えたと伝えられる。
※「弁指(べんざし)」とは・・・藩政時代の漁村で役人の下に浦人(平民)の中から選ばれて置かれた職名。浦の切り盛り一切を弁じた。藩命により船の準備をしたり、役人の応対に当たり、漁民の相談を受けたり、その仕事は多方面にわたった。
西郷は、2回島流しに遭っています。
1回目は1859年1月から1862年2月まで奄美大島に、2回目は1862年6月から徳之島、8月から沖永良部島で1864年2月まで流されていました。
枕崎と縁(ゆかり)があるのは1回目の島流しで、1862年2月、奄美大島からの帰りに枕崎に寄って鹿児島に帰ったとのことです。
ときの迎船が枕崎の船で、船員も枕崎の者であったと伝えられています。
○西郷と親しく交流があった船頭 久保二右衛門
大島まで西郷を迎えに行った船の船頭は久保二右衛門という者でしたが、二右衛門の子孫の証言が1990年刊行の枕崎市誌に紹介されています。
証言 久保二右衛門の曾孫 森季春氏談
私の曽祖父二右衛門は、西郷さんの用事で大島に往復するときは、「たっびっ」(旅櫃・たびびつ)「旅行用で着替え等を入れる木箱」を必ず持って行ったものだと聞いている。このことは、西郷と二右衛門のかかわりが、一回や二回ではなく、相当長い期間であったと推量される。
二右衛門の子、次郎作の名前は、西郷さんが付けてやったものに間違いはない。
次郎作じいさんが、九歳の年に西郷さんが亡くなり、その葬式には、二右衛門に手を引かれて鹿児島まで参列したということ、このことは、ばあさんが語ったことを覚えている。
次郎作の生まれる前から、西郷と二右衛門とは行き来があって、色々な用事の場合、西郷が来てくれと言えば、すぐそれに応じて鹿児島まで二右衛門は仕事の加勢に行ったと言う。
第一回目の大島流刑から西郷が赦免されて、枕崎へ入港したその時に次郎作が生まれたのではなく、それから七年後、すなわち明治二年に次郎作は生まれている。西郷を大島まで迎えに行った後も二右衛門と西郷は親しく交際していたことが証明される。
(一部略)
西郷の1回目の島流しは幕府の追及を逃れるために藩にかくまわれて奄美大島に流されたもので、藩から禄も貰っていたと言います。
西郷は自分の用事のために二右衛門を何度も大島に呼び寄せていたのでしょうか。
二右衛門が西郷を大島まで迎えに行く任務を担ったところを見ると、その前から交流があったことが想像されます。
南洲翁逸話に「二右衛門の子、次郎作の名は西郷が付けてやった」とありますが、次郎作の名を付けたのは、1862年の枕崎入港の時でなく、7年後の1869年(明治2年)のことのようです。西郷と二右衛門は、大島からの赦免後も親しく付き合っていたことがうかがわれます。
○西郷を迎えに行った船は鰹船だったのか
藩政時代から鰹漁業が盛んであった枕崎ですが、西郷を大島まで迎えに行った船は鰹船だったのでしょうか。
枕崎市誌によると、枕崎地方では明治の初めまでは鰹船を「七反帆」と呼び、肩巾10尺(約3メートル)、長さ50尺(約16メートル)、稼子(かこ・乗組員)は25名くらいであったといいます。藩政時代は、それよりもずっと小さい船で、六反帆船と呼んだとのことです。
藩政時代、六反帆以上の船は、大船と呼ばれ、藩主(領主)は、必要な際は、船主に命じて藩の物資輸送に当たらせました。そのために、船の建造費を融通してやったり、税を免除したり、いろいろな保護をしていました。
大船は、商船であって、枕崎地方では俗に「イサバ」と呼び、阪神方面の消費市場を結ぶ貿易船でありました。生産物を消費地に運び、かの地から生活物資を積んで交易したといいます。
ということは、西郷の迎船は鰹船でなく商船だったのか。ちょっと待ってください、枕崎の鰹漁業の歴史にはまだ面白い話があるのです。
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