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鹿篭(かご)という地名の由来(後編)



「三国名勝図会」より 立神石(たてがみいわ)



 「古事記」に出てくる「勝間」と「鹿籠(かご)」が何の関係があるのか、という疑問にここで答えておかなければなりません。

鹿児島には「高千穂の峰に天孫が降臨した」という伝説を始め、日本神話に関係する伝説が各地に存在しています。

古事記に書かれている、天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫であるニニギノミコトが高千穂の峰に降り立ってから、笠沙でコノハナノサクヤヒメと出会い、阿多で三人の男子を儲けたという南薩摩を舞台にした伝説も残されています。

ニニギノミコトの長男が海幸彦で、末っ子の三男が山幸彦です。海幸、山幸の話も古事記に出てきますが、山幸が海幸から借りて無くしてしまった釣針を探しに海神の宮に行くときに乗った乗り物が「无間勝間」(まなしかつま)という船なのです。

この後、山幸は海幸との争いに勝ち、フキアエズノミコトという男子を儲けますが、これが神武天皇の父親になります。神武天皇が鹿児島の地から東征して大和政権を打ち立てたというのも、鹿児島の地に残る伝説です。

ちなみに、ニニギノミコト、ホオリノミコト(山幸彦)、フキアエズノミコトの三代を「神代三代」(かみよさんだい)と呼んでいますが、この三人(神様なので「三柱」というべきでしょうか。)の陵墓も鹿児島県内のそれぞれ、川内の可愛山稜、溝辺町の高屋山陵、吾平町の吾平山稜にあります。

少し神話の話に夢中になり過ぎたようです。「古事記」に出てくる「无間勝間」(まなしかつま)の話に戻しましょう。

 「古事記」では、山幸彦が海神(わたつみ)の宮に行く時に乗った船は、「无間勝間」(まなしかつま・目が無いほど堅く編んだの意味)とあります。
 また、日本書紀では、山幸彦が乗った船は、「無目籠」(まなしかたま・堅く編んだ隙間の無いの意味)とあります。
 堅く編んで水が入らない様にした乗り物のようです。これは「日本書紀神代下第10段本文」の記述です。
 一方、「同書第10段第一の一書(あるふみ)」では、同じ場面で「大目麁籠」(おほまあらこ・目の荒いの意味)となっています。
 「目の荒い」では水が入り、乗り物は沈んでしまうので、本文と明らかに矛盾しますが、堅い目でない小船を作って海の中に入って行ったことにして、海の中の物語になるように試みたという説もあるようです。

「鹿籠」は「勝間」から出た、と言っている「麑藩名勝考(げいはんめいしょうこう)」ですが、唐突に「勝間」という言葉が出てくるのではなく、実は「鹿籠」の説明の前に、「鹿児島」の由来について記している箇所があって、そこで「勝間」について詳しく説明しているのです。

傳称、麑島(かごしま)とは、籠島(かごしま)なり。古に謂ふ、無間(マナシ)の籠より出たる名
  なりとそ (中略)

所謂籠是今の竹籠也。漢語抄、籠カタミとあるハ、カタマの轉りたるにて、方言謂バラ籠なり、此の
麑嶋の地は、彦火〃出見尊、かの籠の小船に乗りて、海宮に出幸給ひし故址なるをもて、籠島の名を負
せしよし也。

「麑藩名勝考」では、ここで詳しく、古事記、日本書紀に出てくる「无間勝間」や「無目籠」の解説をし、「鹿児島」の由来は「籠島」であると言っています。

なので、「鹿籠」を紹介している箇所では、「勝間」に由来するとだけ言って、説明を省いているようです。

色々と「鹿篭」という地名について探ってきましたが、どうやら「鹿籠」は古事記、日本書紀に出てくる「籠」から出た名前であるとの説に辿り着きつつあります。

一方、「鹿籠の」地名の由来には別の説もあります。「籠(こもり)」という地名に由来するという説です。

 鹿籠の字に含まれる「籠(こもり)」という地名には「入り江」という意味があり(南日本の地名−小川亥三郎著より)、枕崎の「鹿籠」の地名も、もとは「籠(こもり)」と言う地名から派生したのでは、という方もおられます。

 (yan1123 さんのブログを参考)

しかし、今まで紹介してきた鹿児島県内に伝わる伝説や古文書から「鹿籠」の地名を見てみると、鹿児島の地に広く残る山幸伝説が土台にあって、古事記、日本書紀に出てくる「勝間」=「籠」に由来するものと思われてならないのです。

長々と書いてきましたが、私なりの結論は、「鹿篭(かご)」の名前は山幸彦が乗った「無目籠(めなしかご)」に由来する古代ロマンに満ちた地名である、ということに行き着きました。

      2009年7月  shusen

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