鹿児島黒豚の中でも、枕崎の「鹿籠(かご)豚」は本物を追い求め育てられていて、その旨さと肉質の良さで、一度食べたら忘れられない味と評判ですが、由緒ある豚の血統と飼育の難しさから「幻の黒豚」と言われています。
「鹿籠豚」の名前は、戦後間もない頃枕崎産の黒豚を生きたまま貨車で東京に出荷した際、貨車に鹿籠駅の車票がついていた事から、市場関係者や食肉業者の間で自然に「鹿籠豚」と呼ばれるようになったとのことです。
鹿籠駅は、枕崎から伊集院まで運行されていた、私鉄鹿児島交通南薩線の駅ですが、既に廃止されていて現在は駅の痕跡もなく寂しい限りです。
さて「鹿篭(かご)」の地名ですが、現在の枕崎市地域の全体が、明治の初めまで「鹿籠」と呼ばれていたことはあまり知られていません。
「鹿篭」(鹿籠)という地名は、現在も「東鹿篭」「西鹿篭」の大字名として残っていますが、近頃では町名変更によって大字名が使われなくなり、目にする機会も少なくなっています。
この「鹿篭」という地名には、どのような由来があるのでしょうか。古来の伝説などから「鹿篭」の地名の由来を探っていきたいと思います。
枕崎市誌によると、
島津氏五代である貞久が正平十四年(1359年)4月に7カ条の置文を残し、それと同時に「薩摩国河辺郡内嘉古村」を子に譲る旨の譲状を残している。
「嘉古村」すなわち「鹿籠」という地名が歴史書に現れるのはこの時からであり、この時代にはすでに一つの知行所として一村を形成していたことが理解される。
とあります。
枕崎市誌には、14世紀には「鹿籠」という地名が使われていた、ということは書いてあるものの、その由来については記されていません。
枕崎市誌には記載がないのですが、地元枕崎には次のような伝説が伝えられてるようです。
神代の昔、霧島の高千穂峰に、天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫、ニニギノミコトが降臨してのち、都を吾田宮に定められ、笠狭野間崎(カササノマミサキ)のオオヤマツミノカミの娘、コノハナサクヤヒメノミコトをおきさきにむかえられて、お生まれになったのが、海幸彦(火照命・ホテリノミコト)と山幸彦(火遠理命・ホオリノミコト・別名彦火火出見尊・ヒコホホデミノミコト)のご兄弟でした。
山幸彦は兄神海幸彦の釣り針をなくされて、探しに出かけられました。
国分八幡下のカゴ山から舟を出し、錦江湾を南下した目なしかごは、黒潮に乗り、最初に着いた場所が開聞岳と向い合う、この景勝の地鹿篭の海岸であったというので、山幸彦の別名「火の神」を、ここ一帯の名称にしたということです。
(火之神公園内の案内板より)
また、同じ南薩摩地方の頴娃町には、次のような伝説が伝えられているとのことです。
山幸彦が海幸彦の釣針を探しに出かけられたとき、国分八幡下のカゴ山から、目なし篭に乗って出発された。そして最初に着いた場所が、鹿籠の海岸であった。
(徳留秋輝−「南薩の伝説」を参考)
さらに、同じく南薩摩地方の笠沙町の二王アには、次のような伝説が残されているとのことです。
二王アは「二皇ア」の意で、有名な海幸彦と山幸彦の争いのあった場所で、即ち彦火火出見尊が釣針を失われて泣いておられた所だと言い伝えられている。
又、尊は、この辺から船に乗って出発されたが、潮に流されて枕崎の鹿籠に漂着したとも言い伝えられている。
(徳留秋輝−「南薩の伝説」を参考)
一方、江戸時代の古文書に、現在枕崎と呼んでいる地方は、もともとは鹿籠と称されていた地域であるということが出てきます。
寛政7年(1795年)に刊行された、薩摩藩の国学者、白尾國柱(しらおくにはしら)による「麑藩名勝考」(げいはんめいしょうこう)という文書です。
この文書には、薩摩藩内の古跡・名勝の由来や伝承などについて書き著されているのですが、「鹿籠」の地名起源について、
同郡(阿多郡)鹿籠郷 鹿籠の二字にて加呉と唱ふ、即籠の義にて、勝間より出たる號といへり
と記されています。
勝間とは、竹で編んだ目の細かい篭のことで、「古事記」に出てくる、火遠理命(ほおりのみこと=山幸彦)が海神の宮に行った時に乗った船「无間勝間」(まなしかつま)のことを言うようです。
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